この世界にまだ「物語」が可能だとすれば、それは崩壊の果てにこそ現れるものでしょう。
瓦礫の中に転がる真理。
異形の肉体が立ち上がる地平。
うす曇りの午後、火照った脳裏に冷たい雨粒が落ちるような衝撃で『眩暈』は始まります。
青年が遺した手記――そこには切断された男女の亡骸がひとつに縫合され、世界は終末の色を帯びているという幻視が、ねっとりとしたインクで綴られていました。
読者は最初の数行で立ちくらみを覚える。
まるで視界の水平線が揺れ動く船室へと放り込まれたかのようです。
御手洗潔は、その常軌を逸した証言を単なる狂気と片づけません。
手帳の端に細やかなメモを走らせながら、手記の行間に潜む温度差――狂熱と凍結が同居する呼吸のリズム――を読み取り、世界の割れ目を探るように歩み出します。
この物語のもっとも妖しい魅力は、現実と幻想の境界線を意図的に曖昧にしたまま、真相という確かな地平へ徐々に船を寄せていく構成美にあります。
手記の文面が示す異形の身体、荒涼たる風景、そして「何か恐ろしく尊大な意志」の気配――それらが本当に存在したのか、それとも青年が生み出した血と脳漿の夢なのか。
読者はページをめくるたび、足元の床板がぎしりと軋む音を聞き、目の前の扉が本当に開くのか疑います。
一見、悪夢の呪文のような記述が、やがて御手洗の冷徹な論理に浄化され、白磁の皿の上に琥珀の標本として並べられる過程は、解剖と詩作が一体となった錬金術です。
島田荘司が得意とする大胆な仕掛けは今回も健在で、読者の常識感覚を数度にわたって掬い上げ、空へ放り投げては別角度の光に晒します。
そのたびに「パズルとはかくも美しく残酷である」と思い知らされ、理性と感情の両方が甘い痺れを覚えるのです。
忘れてはならないのが『占星術殺人事件』との緊やかな対話です。
かつて世を震撼させた「合成された完全体」の悪夢は、ここでは陶太の手記という鏡像に転写され、新たな問いを産み落とします。
前作へのオマージュを知る読者は既視感に心を揺さぶられ、未読の読者は純粋な恐怖と好奇心に背筋を灼かれる──いずれにせよ、島田文学が築いてきた巨大な迷宮の奥深さを身をもって体感することになるでしょう。
タイトルの「眩暈」は、単なる身体症状を示す言葉ではありません。
人が真実を目の当たりにした瞬間、目に映るものすべてがぐらりと傾ぐ感覚、あるいは虚構と現実が溶け合う狭間で、意識の水平が失われる刹那の震えを象徴しています。
御手洗の推理が大気を一変させるごとに、読者の三半規管は電子顕微鏡のレンズのように細かく震え、世界の輪郭を掴み損ねます。それは不安であると同時に、極めて耽美な体験でもあります。
御手洗が時折披露する奇怪な舞踏──ズールー族の勝利の踊り──は、この重苦しい物語に奇跡のような空隙を開け、石岡君の無言の溜息がそこへ涼風を送り込みます。
狂気と理性、悲劇とユーモア、暴力と美。
相反する要素が一幅の絵画のように共存し、読者の感情を上下左右に攫っていくのです。
本作の真価は、最終章で示される「論理の換気」そのものにあります。
手記のちりばめた不気味な比喩が、ひとつひとつ現実の歯車と噛み合い始める場面で、言葉はもはや紙の上の記号ではなく、鋭利な刃物として輝く。
その切先が向かうのは、事件の核心だけではありません。
読者自身が持つ固定観念、理性の壁、社会が敷いた規格線。
それらを深々と斬り裂いて、目も眩むような新しい視界を提示するのです。
解決編で示される世界の裏側は「可能性」という名の闇と光が混交する鉱脈です。
そこには暴力的なまでの真実と、掌に収まるほどの小さな慈しみが同居し、読者は息を呑みながらページを閉じ、長い吐息を漏らすでしょう。
読み終えたあと、静かな部屋でたった一人、ふと周囲の空気が僅かに歪んでいるように感じるかもしれません。
『眩暈』の残響は、視覚でも聴覚でもなく、むしろ内耳の奥深くで鼓動と共鳴しながら、しばらく闇の底で揺れ続けます。
その揺れは不吉で、同時に甘美です。
なぜならそれこそが、島田荘司が仕掛けた「限界の先でこそ謎は輝く」という声明だからです。
この物語を読み終えたあなたは、もう一度最初の手記へ戻りたくなるでしょう。
そこにはすでに知っているはずの文字列が、まるで見慣れた星図の裏に隠れた暗黒星のように、異なる輝きで瞬いています。
終末を見つめた青年の言葉も、御手洗の峻烈な推理も、そして読者自身の「現実感」さえも、すべてがぐらりと傾斜した位置で静かに再配置されているのです。
『眩暈』は、論理という名の古典楽器で幻想という旋律を奏でる、稀有な交響曲にほかなりません。
島田荘司は『眩暈』によって、ミステリーという形式に、未知の可能性を注ぎ込みました。
それは、論理だけでは語れない幻想の領域を、探偵小説の構造美のなかで切り取り、ひとつの“詩”として立ち上げた奇蹟のような試みです。
世界が崩れ落ちる中で、私たちはなお、謎を求め、物語を欲する。
その衝動がある限り、ミステリーは決して終わらない――。
『眩暈』は、そのことを告げる、静かな終末の書なのです。
