遠坂八重『死んだら永遠に休めます』- こんな真相、知りたくなかった。悪夢の社畜ミステリ

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現代日本文学における注目すべきミステリー作品が登場しました。遠坂八重氏による『死んだら永遠に休めます』です。著者は2022年に『ドールハウスの惨劇』で第25回ボイルドエッグズ新人賞を受賞しデビューした新進気鋭の作家であり、本作はその筆力を改めて示すものとなっています。

物語は、28歳の主人公・青瀬が、心身ともに限界まで追い詰められた「限界会社員」として、劣悪な労働環境のなかで苦しむ姿から始まります。彼女を苦しめる無能かつパワハラ気質の上司・前川が、ある日「失踪宣言」と書かれたメールを残して姿を消すのです。

しかし、事態はこれで終わりません。数日後、前川を名乗る人物から「私は殺されました」という衝撃的な件名のメールが社内に一斉送信され、そこには容疑者候補として青瀬が所属する「総務経理本部」の全員の名前が列挙されていました。

この告発により、青瀬と同僚たちは一転して殺人事件の容疑者という立場に追い込まれ、物語は一気に緊迫感を増します。

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職場という名の深淵:「ブラック企業」の解剖

本作の舞台となるのは、執拗なまでに詳細に描写される「ブラック企業」。そこでは「毎日深夜まで働き詰めの生活」が常態化し、「いつまでも終わらないたくさんの仕事」に社員たちは疲弊していた。絶え間ないパワーハラスメントが横行し、職場には絶望と諦めの空気が漂い、「死んだ目をしている同僚たち」の姿が描かれる。特に青瀬が所属する総務経理本部は、社内でも「ノースキルの集まりとバカにされている」低い立場に置かれていた。

このような過酷な環境は、単なる背景としてではなく、物語の中心的な要素として機能しています。この極限状況が、登場人物たちの心理や行動に深刻な影響を与えていることは明らかです。主人公の青瀬は28歳の「限界会社員」として描かれ、その心身の消耗ぶりは痛々しいほどです。ゴミ出しといった基本的な生活行為すらままならなくなり、「意識が朦朧とし」、仕事の優先順位もつけられず、物忘れも激しくなるなど、精神的に追い詰められた結果、「逃げる力さえない」状態に陥っています。

この作品が描き出す職場の惨状は、現代社会にはびこる過重労働、パワーハラスメント、そしてそれらがもたらす精神的荒廃といった問題を克明に映し出しており、そのリアリティは読者に強い印象を与えます。「社会にまん延するリアル」、「現代社会の闇を投影したミステリー」、と評されるように、本作は単なる娯楽作品に留まらず、現代社会が抱える病理を鋭く告発する社会派ミステリーの側面も持っているのです。

捜査の進展:消えた上司、包囲される部署

物語の中心となる謎は、前川が本当に死んだのか、もしそうなら、告発された同僚たちのうち誰が犯人なのか、という点にあります。告発メールによって部署全体が容疑者とされ、社内では疑心暗鬼が渦巻き、外部からも厳しい目が向けられることになります。

この絶望的な状況のなかで真相究明に乗り出すのが、主人公の青瀬と、派遣社員の仁菜です。青瀬は心身ともに不安定な状態にありながらも、事件の渦中に巻き込まれていきます。一方、仁菜は当初「ミスの多い派遣社員」として認識されていますが、次第に「妙に頭の冴える」一面を見せ始めます。この対照的な二人の関係性は物語に面白みを与えており、物語の展開において重要な役割を果たしているのです。

彼女たちは、敵意に満ちた職場環境のなかで、同僚たちの関与の可能性を探りながら、真相へと近づこうと試みます。物語は「どんどん悪化していく主人公を取り巻く状況」や、「タダならぬ空気が全編から漂い、胸騒ぎが止まらない」といった描写を通じて、息詰まるような緊張感と、増幅していく恐怖を巧みに描き出しています。

物語の初期設定は「誰が前川を殺したのか」というフーダニットの形式を取っていますが、青瀬の心理状態や職場の人間関係に焦点が当てられている点にも注目です。青瀬の物忘れの激しさや優先順位の混乱といった描写、そして彼女自身が同僚からあまり好かれていない描写は、彼女の視点の信頼性に疑問を投げかけます。

さらに、物語そのものが読者を欺く仕掛けを持っているという事も忘れてはなりません。これらの要素を考慮すると、捜査の過程は、単に前川殺害の犯人を見つけ出すというよりも、青瀬自身がトラウマによって歪められた現実を認識し、他者によって操られている可能性のある状況を理解していく旅路となるのです。真の「謎」は、青瀬の置かれた状況と、仁菜を含む周囲の人々の複雑に隠された動機を解明することにあるのでしょう。

深層海流:悪意、不信、そして休息の意味

本作は、職場に渦巻く隠された悪意や恨みというテーマを深く掘り下げています。極限的な労働環境が、上司に対してだけでなく、同僚間においても負の感情を増幅させる様子が描かれているのです。まさに、「人間の悪い所をとことん表現した物語」であり容赦がありません。

そして、告発メールをきっかけに、同僚間の信頼は崩壊し、「加速する人間不信が最後まで止まらない」状況へと陥ります。青瀬の視点が信頼できない描写は、この不信感をさらに複雑なものにしています。ここで改めて『死んだら永遠に休めます』というタイトルに立ち返ると、その言葉の重みが胸に迫ります。

登場人物たちの極度の疲弊と絶望感は、「限界が悲劇を起こす」、「死んだほうがまし、と思いつつ死ぬ気力さえない」といった言葉に集約されており、タイトルは耐え難い苦痛からの究極的な逃避願望を象徴しているかのようです。

物語は単純な善悪二元論では割り切れない複雑さを提示しているように見受けられます。前川はパワハラ上司として描かれますが、彼自身も扱いの難しい部下たちのために「改善しようとしていた」事もわかってきます。主人公である青瀬も、被害者であると同時に、その能力不足から周囲に疎まれていたでしょう。同僚たちは、被害者でありながら加害者にもなり得る存在として描かれているのです。

このような多面的な人物描写は、読者の初期判断を揺るがし、極限状態における人間の行動の曖昧さや、道徳的境界線の揺らぎを問いかけるものとなりそうです。事件の「真相」は、単独犯による犯行というよりも、システム全体の機能不全と、集団的な精神の崩壊にあるのかもしれません。  

著者の技巧:遠坂八重氏の描く世界

著者の遠坂八重氏は、一般企業での勤務経験を持ち、2022年にデビューした作家です。その経歴が、本作のリアルな職場描写に活かされているのかもしれません。文体は「とぼけた文体」でありながら、強烈な心理描写とサスペンス構築に長けていることがうかがえます。物語は「スピード感のあるストーリー」、「ジェットコースター展開」と形容されるように、読者を飽きさせずに引き込みます。  

遠坂氏は、「不穏な雰囲気を徐々に濃くしていき限界まで煮詰めていく」ことで、息苦しいほどの緊張感と不安感を醸成し、読者を物語世界に深く没入させます。  

そして物語は、衝撃的で強烈なクライマックスへと突き進みます。後半では、心情的に重い描写が続き、登場人物たちが厳しい現実と向き合う場面が描かれ、主人公は、過去や人間関係に深く関わる事実にたどり着き、これまでの認識を根底から揺さぶられることになるのです。その一連の展開によって物語の印象は大きく変わり、読み終えたあとには強い余韻が残ります。

おわりに:忘れ難く、心を揺さぶる旅路

『死んだら永遠に休めます』は、読者を惹きつけてやまないミステリー、現代の劣悪な労働環境への鋭い社会批評、そして深遠な心理描写が融合した作品と言えるでしょう。

読後感は強烈で、心をかき乱されるものです。結末は複雑で、ほろ苦さを伴いますが、それゆえに忘れがたい余韻を残します。しかし、絶望の中にも一筋の光があることも忘れてはなりません。

挑戦的で、深く考えさせられ、そして強烈な読書体験を求める方々にとって、『死んだら永遠に休めます』は、その世界の深淵を覗き込むに値する一作となるはずです。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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