宮内悠介『超動く家にて』- ミステリとSFのくだらなくて幸福な衝突【読書エッセイ】

宮内悠介『超動く家にて』を読んでいると、なんとも言えない妙な気分になってくる。
これはSFなのか、それともミステリなのか。
いや、たぶんどちらでもあるし、どちらでもない。むしろもっと厄介で、もっと楽しい何かだ。
宮内悠介という作家は、デビュー作『盤上の夜』のころからずっと、ゲームのように世界を扱う作家だった。
チェス、麻雀、プログラム、ルール、システム。そういう決められた枠組みの中で、人間がどこまで自由に振る舞えるのかを、論理とユーモアで描き続けてきた人だ。
その意味で、この自選短編集『超動く家にて』は、宮内悠介という作家の遊び場を一冊にぎゅっと詰め込んだような本である。
収録されているのは16編。しかも内容は、バカバカしいほどのアイデアSFから、妙に真面目な思弁小説、本格ミステリへのメタ的なパロディまで、かなり振れ幅が大きい。
だが読んでいくうちに、あることに気づく。この人の作品はどれも、「世界そのものをゲームとして見ている」という一点でつながっているのだ。
この発想はかなり楽しい。なぜなら、本格ミステリというジャンルそのものが、もともと一種のゲームだからである。
そして宮内悠介は、そのゲーム盤をときどきひっくり返してしまう。
バカバカしいのに妙に真面目なSF
まずこの短編集を読んで最初に感じるのは、笑っていいのか真面目に読むべきなのか分からない、という妙なテンションだ。
たとえば冒頭に置かれている『トランジスタ技術の圧縮』。これはもう設定からしてかなりおかしい。実在する電子工学雑誌『トランジスタ技術』を、いかに薄く圧縮するかという競技に人生を賭ける男たちの話なのである。いや、意味が分からない。雑誌を圧縮する競技とは何だ。
記録によると、圧縮の試みは遅くとも一九七〇年代には行われていた。圧縮とは生活の知恵であり、同時に、狭い空間で暮らす日本人ならではの伝統芸なのだ。
手練れの仕事は、新品と見紛う仕上がりを見せる。
おのずと、それは競技と化した。精鋭が集い、スピードや美しさを競う競技圧縮へと。
──トラ技圧縮コンテストである。
宮内悠介『超動く家にて』12ページより引用
なのに読んでいると、だんだん真剣になってくる。圧縮の理論、物理法則、素材の特性、圧力の計算……。書かれていることは妙に説得力がある。気がつくと、読んでいるこちらまでどうすればもっと薄くできるのかと考えてしまう。
この感覚は、どこか本格ミステリに近い。荒唐無稽な前提を、論理だけで押し切る。その結果、読んでいる側もつい納得してしまう。つまりこれは、バカSFの皮をかぶったロジックの遊びなのだ。
しかもこの作品、のちに『世にも奇妙な物語』でドラマ化までされている。世の中にはこういうバカな発想が必要なのだと、妙に嬉しくなってしまう。
ミステリ好きにはたまらないロジック遊び
この短編集が特に面白いのは、いくつかの作品が露骨なほどミステリを意識している点だ。
その代表が表題作『超動く家にて』。タイトルからしてミステリ好きならピンとくるはずだ。
宮内悠介はここで、館ミステリの発想をSFの領域まで押し広げる。


宮内悠介『超動く家にて』120ページより引用
施設の平面図を見ながら、エラリイはそんな益体もないことを考える。もっとも「犯人当て」として見るなら、別に玄関がなくとも困りはしない道理で、むしろないほうが好都合だとも言える。それより確認したいことは別にある。
「この家なんだけど」
「何か?」
「回ったりしないよな?」
「いや、回るけど」
ルルウは当然と言わんばかりに答えてきた。
宮内悠介『超動く家にて』120ページより引用
家が動く。いや、ただ動くだけではない。空間の概念そのものが、妙に怪しくなる。読んでいると、「そういう方向に行くのか」と思わず笑ってしまう。ミステリのロジックをそのまま拡張すると、こんな奇妙な話になるのか、と。
もう一つ面白いのが『法則』という作品である。これはかなりミステリ好き向けの一編だ。ここではなんと、ヴァン・ダインの「ミステリ二十則」が世界の物理法則として存在している。つまり、探偵が現場に来るまで重要証拠が出ない。不自然な人物は犯人でない。秘密通路は原則として禁止。こういうミステリの約束事が、重力や時間と同じレベルで世界を支配しているのだ。
この設定だけで笑ってしまうのだが、話はちゃんとミステリになっている。「その世界で完全犯罪は可能なのか」という、妙に真面目な問題に発展するからだ。ミステリ好きなら、この手のメタ構造はかなり楽しいはずだ。
宮内悠介の作品に流れるゲームの感覚
宮内悠介の作品を読んでいると、これはゲームの思考だと感じる瞬間がある。彼は囲碁や麻雀、プログラミングなど、いわゆる「ルールが明確な世界」に強い関心を持っている作家だ。だから彼の物語では、世界そのものがシステムとして扱われる。
ルールがある。プレイヤーがいる。そして勝敗がある。収録作の一つ『星間野球』なんて、その最たる例だろう。宇宙ステーションから地球帰還権を賭けて野球盤でゲームをするという、もう完全に意味の分からない設定なのに、ルールが妙に細かい。この「ルールを考える楽しさ」が、宮内悠介の作品の魅力だ。
ただし、彼の面白いところは、そこに人間の身体性を必ず持ち込むことだ。完全な計算ゲームにはならない。どこかに偶然や感情が入り込む。麻雀でいう「ツキ」みたいなものだ。
このあたりの感覚は、ミステリの世界ともよく似ている。どれだけ論理を積み上げても、最後は人間が関わる。その揺らぎが物語を生む。宮内悠介は、その境界線をとても面白く描く作家なのだ。
くだらない話を真剣に書くという姿勢
この短編集のあとがきで、宮内悠介はこんなことを書いている。
深刻に、ぼくはくだらない話を書く必要に迫られていた。
この言葉はかなり象徴的だと思う。
『超動く家にて』に収録されている作品は、どれも一見するとくだらない。雑誌圧縮競技。宇宙野球。ミステリ法則が支配する世界。設定だけ見れば、ほとんどギャグである。
だが、書き方は驚くほど真面目だ。論理は徹底しているし、設定の作り込みも丁寧。つまりこれは、真面目にバカをやるタイプのSFなのだ。
この系譜には、やはり筒井康隆がいる。あの人も、どう考えてもおかしい話を、全力の知性で書く作家だ。宮内悠介は、その精神を現代的に引き継いでいるように思える。
そしてこの姿勢は、実はかなり大事だ。世界が複雑になればなるほど、人は深刻になりすぎる。だが、深刻すぎると視野が狭くなる。
そこでくだらない話を書く。しかも全力で。これは一種の抵抗なのだと思う。
というかこの『超動く家にて』のあとがきが死ぬほど面白い。収録作品ひとつひとつに作者がコメントをしているのだが、本編より面白いんじゃないか、と思ってしまうほどだ。
長いこと、あとがきを書くという行為にあこがれていた。何しろ、ぼくは人のあとがきを読むのが大好きなのだ。
たとえば、それまでシリアスに一語一語を紡いでいたのが、突如たがが外れたみたいに饒舌になる人。親切に、読解にあたっての補助線を引いていく人。ただのエッセイのような何か。
すごく病んでいるのにそれが一周回って面白い人。
あとがきは最高だ!
ところが、これまでぼくはあとがきを書く機会に恵まれなかった。理由はというと、単に、依頼されなかったからであった。が、今回、短編集を刊行するにあたって、ぼくは一つの天啓を得た。依頼してもらえないなら、自分から書くと言えばいいのではないか!
というわけで──。
本部は、これまで未収録であった短編やショートショートのうち、ネタに偏った作を集めたものとなる。
ぼくにとっては十一冊目の本で、そしていま、はじめてあとがきを記す。
宮内悠介『超動く家にて』 あとがき329ページより引用
動く世界で遊び続けるためのSF
『超動く家にて』を読んで感じるのは、「世界とは案外ゲームなのではないか」という感覚である。
もちろん現実はゲームではない。ルールも曖昧だし、理不尽も多い。だが、もし世界をゲームとして眺め直すことができれば、少しだけ自由になれる。
宮内悠介の作品は、そういう視点をくれる。論理を徹底すると、世界は意外な形に変わる。ルールを変えると、別の可能性が見えてくる。この短編集には、その面白さがぎっしり詰まっている。
SFとして読んでも楽しい。ミステリ好きとして読んでもかなり面白い。そして何より、発想がとにかく自由だ。
宮内悠介という作家は、どうやらまだまだ新しい盤面を用意しているらしい。
次にどんなルールで世界をひっくり返してくるのか。
ひとりのミステリ好きとして、私はその新しいゲームの開始を楽しみに待つしかない。



















