2025年6月に読んで特に面白かった小説7冊 – 小倉千明『嘘つきたちへ』ほか

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今月は25冊本を読んだ。

その中から「特に」面白かったおすすめ小説を7作品に絞ってご紹介するよ。

目次

小倉千明『嘘つきたちへ』

小倉千明『嘘つきたちへ』は、「嘘」をテーマにした5編から成る短編集だ。デビュー作ながら第1回創元ミステリ短編賞を受賞しており、読む前から只者ではない雰囲気を漂わせていた。

表題作の「嘘つきたちへ」では、20年以上前の水難事故をめぐって再会した三人の同級生が、それぞれの胸にしまい込んだ“あのとき”の記憶を持ち寄る。

ただし、記憶というのは都合よくできていて、そこにあるのは事実ではなく、嘘と保身と後悔で歪んだ過去である。物語が進むにつれて、それぞれの言動が少しずつ軋みはじめ、じわじわと真実に近づいていく。この静かで不穏な空気感は、まさにイヤミス(読後感が悪いミステリー)の醍醐味だ。

他にも、小学生が探偵役を務める「保健室のホームズ」では、子どもの視点から語られる残酷な結末が待っているし、「赤い糸を暴く」では恋愛の“運命”がたった一行でひっくり返される。どの話にも共通するのは、人はなぜ嘘をつくのか、そしてその嘘がどんな悲劇や怖さを生むのか、ということへの鋭い観察だ。

ミステリーとしてのトリックや構成もよく練られていて、それでいて読後には胸の奥に気味の悪さが残る。この余韻がなんともクセになる、人間の本音や醜さをそっとあぶり出してみせた一冊だった。

岡本好貴『電報予告殺人事件』

ヴィクトリア朝のイギリスを舞台に、電信という19世紀の最新技術を駆使して描かれたミステリがこの『電報予告殺人事件』だ。

華やかな文明開化の裏側で、モールス信号のカチカチという音が事件の謎を紡ぎだす。こんなミステリ、他ではなかなか出会えない。

物語の主人公は、電信局で働く女性・ローラ。仕事に誇りを持ちつつ、夢と現実のはざまで揺れる、まっすぐな人物である。彼女が勤務する電信局で局長が殺されるという事件が起き、そこから話は一気に加速する。

犯行予告のような電報が届き、第二の殺人が起きる――展開は王道の本格派だが、そこに電信という“当時のテクノロジー”が絡んでくるから、俄然面白くなる。

この作品の特長は、電信というメディアがただの小道具ではなく、密室の謎やアリバイトリック、犯人の意図にまで深く関わってくる点だ。読んでいて「なるほど、そうきたか」とうならされる瞬間が何度もある。しかも舞台装置としての時代背景もよくできていて、19世紀の英国に生きているような気分にさせてくれる。

ローラ自身の描かれ方も見事だ。男社会の中で自立しようとする彼女の姿勢には、現代の読者も勇気をもらえるだろう。恋心や葛藤も描かれるが、それに流されず、あくまで知性と誇りを武器に立ち向かうところがいい。

クラシックなミステリへの愛と、確かな構成力。この作品は、どちらも大切にしたい私にとって、とびきりの贈り物になった。

塩田武士『踊りつかれて』

SNSの炎上、週刊誌のスクープ、ネットリンチという言葉が当たり前に飛び交う現代社会において、『踊りつかれて』は、あまりにもタイムリーで、あまりにも痛い一冊だ。

この物語には二人の被害者が登場する。一人は、お笑い芸人・天童ショージ。軽い気持ちの不倫がきっかけでネットに火がつき、謝罪の言葉もむなしく、彼は命を絶つ。もう一人は、かつての人気歌姫・奥田美月。バブル期、雑誌の記事一本で奈落に突き落とされた。

この二つの事件、時代は違えど、共通しているのは「言葉の暴力」によって人が壊れていくということだ。そして、そんな過去と現在が交錯する中で現れるのが、謎の人物による【宣戦布告】ブログ。誹謗中傷を繰り返した83人の個人情報が晒されていき、誰かの“正義”が静かに牙をむく。

面白いのは、この作品があの『週刊文春』に連載されたという点。いわば、加害者でもあるメディアが、自らの罪を俎上に載せている。これは単なるフィクションではない。フィクションという皮を被った、自省の書であり、警告の書でもある。

誰が悪いのか。被害者か、加害者か、それとも正義を振りかざす第三者か。物語は答えを出さない。ただ、言葉が人を救うこともあれば、殺すこともあるという、単純だけれど重たい現実を、読者の心に深く刻みつけるだけだ。

“踊っていた”のは誰か。そして、“踊らされていた”のは誰だったのか。本書を読んだあと、その問いはきっと、他人事ではいられなくなる。

恩田陸『珈琲怪談』

「なんか、怖い話ない?」

そんな軽いひと言から始まるのが、この奇妙で洒落た短編集『珈琲怪談』だ。登場するのは外科医、検事、作曲家、音楽プロデューサーといった、一見理性的で合理的な職業の男たち。彼らが、京都や神戸など実在の喫茶店にわざわざ集まり、珈琲を片手に怪談を披露し合う。

語られる話は血が飛び散るような類ではない。むしろ、「あれ、今の話、何が怖かったんだろう」と後からじわじわ効いてくるタイプ。まさに“奇妙な味”である。喫茶店の落ち着いた空間と珈琲の香りが、日常と非日常の間を曖昧にし、読者をゆるやかに異界へ引き込んでいく。

語り手たちは、記憶がやや怪しくなってきた世代でもある。だからこそ、彼らの語る出来事が「本当にあったこと」なのかどうかは、はっきりしない。だが、それが逆にリアルだ。人間の記憶の曖昧さが、物語に独特の怖さを与えている。

どこか懐かしく、妙に落ち着いた雰囲気の中に、ぽつりと置かれる得体の知れない感覚。その違和感こそが、この作品の一番の魅力である。派手な演出はない。だが、読み終えたあとにふと背中が寒くなる。そういう怖さなのだ。

怪談を読み慣れた人も、そうでない人も。珈琲を淹れて、ページをめくってみてほしい。

静かに立ちのぼる不安の湯気が、きっと心の奥をくすぐってくるはずだ。

芦沢央『嘘と隣人』

定年を迎え、ようやく穏やかな生活が始まる――はずだった。主人公の平良正太郎は、長年刑事として働いてきたが、今では普通の住人としてマンションに暮らしている。

だが、そんな日常は、隣人たちのちょっとした「おかしなこと」でじわじわと侵食されていく。そこにあるのは、血なまぐさい殺人事件ではない。SNSの中傷、マタハラ、外国人差別、ストーカー……静かなマンションの壁一枚向こうで、じんわりと広がる不穏な気配だ。

この短編集の面白さは、主人公が「元刑事」だという点にある。もう令状は取れないし、捜査に踏み込むこともできない。でも、勘と経験は健在だ。目の前の出来事の“何か変だ”に気づいてしまう。だからこそ、動いてしまう。だが、正義感だけでは踏み込めないラインがある。法律では裁けないグレーな悪意。それにどう向き合うかという、静かな闘いが続く。

この作品に登場する加害者たちは、特別な怪物ではない。むしろ「こんな人、どこにでもいそうだな」と思えるような、普通の人ばかりだ。小さな嘘、ちょっとした思い込み、悪気のない一言。けれど、その積み重ねが、ある人の人生を確実に壊していく。怖いのは、そんな身近すぎる悪意だ。

芦沢央は、この「ありふれた地獄」を、あくまで日常の延長として描くのがうまい。読後にすっきりすることは、あまりない。

むしろ、誰かと目が合ったとき、「この人は本当に善人なんだろうか」と、少し考えてしまう。

そんな後味が、この本にはある。

夏木志朋『Nの逸脱』

ちょっとだけ道を外れる。そんな気持ちだったのだと思う。だが、物語の登場人物たちは、ふとしたきっかけで、とんでもない修羅場に足を突っ込んでいく。

本作『Nの逸脱』に収められた3つの物語は、いずれも「小さな逸脱」が、想像以上に大きな混乱を呼び起こす様を描いている。

たとえば、トカゲを救うために恐喝まがいのことを考え始めるペットショップ店員。いじめに苦しむ教師が、夜の電車で誰かを尾行することに心をすり減らしていく話。そして、ちょっとズレた占い師志願者が巻き起こす混乱。

それぞれが、「ちょっとだけズルをした」「少しだけやり返した」つもりだった。しかし、それは思っていたよりもはるかに深くて、怖い世界への入口だったのだ。

この作品が面白いのは、誰が善で誰が悪かが、物語の中で次々にひっくり返るところだ。最初は同情していた人物が、気づけば加害者に見えてくる。逆に嫌な奴に見えていた登場人物に、なぜか心を寄せたくなってしまう。読みながら、こちらの感情も振り回される。自分なら、どうするか。そんなことを考えさせられてしまう。

そうした人間の不安定さや危うさを、ちょっとブラックなユーモアを交えながら描いている。計算したつもりが、まったく別の方向へ転がっていく展開は、ページをめくる手が止まらない。

読後に残るのは、どんでん返しのスリルよりも、日常のすぐ隣にある落とし穴の存在だ。

普通に見えるあの人が、実はもう逸脱を始めているかもしれない――そんな静かな不安が、あとを引く。

著:夏木志朋, イラスト:からんころん

藍峯ジュン『警察怪談 報告書に載らなかった怖い話』

この本に収められているのは、いわゆる“怪談”だ。けれど、ただの作り話ではない。

話し手は、交番勤務の巡査やベテラン刑事、山で行方不明者を探す警備隊員たちだ。しかもそれをまとめたのは、元・県警の鑑識官という異色の肩書きを持つ著者、藍峯ジュン。これは、現場の人間しか知りえない、報告書に書けなかった「もうひとつの現実」である。

たとえば、ある死亡事故の再現実験の場で、現場にいた容疑者が突然叫び出す。「見える!あそこにいる!」と。誰もいないはずの場所を指差し、泣き叫ぶ男。その時、彼の目には何が映っていたのか。それを説明できる人間はいなかった。

本書の恐ろしさは、そうした「説明のつかない出来事」が、普段は冷静沈着な警察官の口から淡々と語られるところにある。論理と証拠を重んじる職業の人間たちが、それでも口をつぐめない何かが、確かにあったのだろう。

章ごとに「交通課」「刑事部」「山岳警備隊」など、現場別に構成されているのも面白い。怪談と同時に、警察のリアルな日常――現場用語、鑑識のノウハウ、深夜勤務の空気感――まで垣間見られる。ホラーでありながら、警察エッセイとしても読めてしまう珍しい一冊だ。

お化けなんて信じていない。そう言う人ほど、読んだ後で夜道がちょっとだけ怖くなるかもしれない。

なにせこれは、誰かの想像じゃない、“本当にあったこと”なのだから。

おわり

来月もまた、心を揺さぶる本に出会えますように。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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